Translators in Sustainability 伝わるコミュニケーションへの道
違いを認め合う大切さ
11月17日、米民主党のナンシー・ペロシ下院議長が民主党指導部から引退することを表明しました。女性初の下院議長を務め、約20年にわたり下院民主党を率いてきたペロシ氏のこの表明を受けて、共和党のジョン・ベイナー元下院議長がツイッターに投稿をしました。
Congratulations @SpeakerPelosi on a remarkable, historic run of service in the People’s House. We were able to disagree without being disagreeable. You’ve been unfailingly gracious to me and my family.
— John Boehner (@SpeakerBoehner) November 17, 2022
We were able to disagree without being disagreeable.
投稿の中で目を引いたのが上の文章です。
disagreeは「意見を異にする」、disagreeableは「不愉快な感じを与える」。政治家として意見を異にしたけれども、お互いに、相手に不快な思いをさせることなく議論を戦わせることができたと、ベイナー氏は述べています。
I attack ideas. I don’t attack people.
ベイナー氏の言葉を読んで思い出したのが、米最高裁のギンズバーグ判事とスカリア判事(いずれも故人)の友情です。リベラル派のギンズバーグ判事と保守派のスカリア判事は、法解釈を異にし、人工妊娠中絶や銃規制などさまざまな問題で激しく対立しましたが、裁判所という職場における良き同僚であり、仲の良い友人でもありました。
ギンズバーグ氏が、「なぜこれほど意見が異なるのに、私たちは友人でいられるのだろう」と問うた時、スカリア氏はこう答えたと言います。
I attack ideas. I don’t attack people….*
(試訳 私は考え方に対して攻撃するのだ。人に対しては攻撃しない……)
議会であれ裁判所であれ、何のために論争を交わすのか――突き詰めれば、人々のために最善の道を選ぶことが目標のはずです。何を最善と考えるのか、そこに意見の違いがあるのは当然であり、それを認めたうえで自らの信念に基づいて議論を戦わせるのが理想的な姿でしょう。
しかし現状は、米国だけでなく世界の多くの国で、考え方ではなく個人に対して攻撃するような論争が少なくありません。違いを認め合い「考え方」を戦わせる、テレビを通して見ている市民をうならせるような議論を期待したいところです。
* J. Rosen, Conversations with RBG – Ruth Bader Ginsburg on Life, Love, Liberty, and Law (New York: Picador, 2020), p.106.