「近代化とは何か。人間とは何か」水俣・京都展でもらった問い【展示レポート編】

2025 / 7 / 3 | カテゴリー: | 執筆者:EcoNetworks Editor

エコネットワークス(ENW)が運営するコミュニティ、TSA(Team Sutainability in Action)では「サステナビリティファンド」という仕組みを設けています。これは、TSAパートナーの暮らしや社会、地球のサステナビリティにつながる活動をサポートする制度です。

細川絵美さんは、同制度を活用し水俣・京都展へ行き、多くの学びを得てきました。


執筆:細川絵美
神奈川県在住のライター。ENWでは社内広報を担当。関心のあるテーマは、パーマカルチャー・自給力を高める暮らし・子どもの育ちと権利・空き家問題。


昨年12月、水俣フォーラムが開催する「水俣・京都展」に行ってきました。

水俣病のことは、「チッソが流し続けたメチル水銀によって発症した日本の公害」という教科書で学んだ知識があるだけでしたが、心のどこかでずっと気になっていました。

水俣病の裁判が現在も続いていることに加え、特に、ここ最近コロナワクチンによる薬害被害やTSMCの半導体工場による公害への懸念を見聞きする中で、自分の中で水俣病への関心が改めて高まっていることを感じていました。

そんな折、娘が通っている野外保育「森のようちえん」の先生が水俣フォーラムの理事をされていること、サステナビリティファンドが後押しとなり、「水俣・京都展」を見に、京都まで行くことを決めました。

水俣・京都展ポスター

(Photo by Emi Hosokawa)

2022年に娘が生まれてから、初めての一人旅。神奈川から京都まで日帰りで、滞在中の4時間すべてを使い、展覧会をじっくり見てきました。展示を前にすると、様々な感情が込み上げてきて胸がつまり、涙が止まりませんでした。

水俣展とは

水俣病を伝える展覧会「水俣展」は、1996年の東京展以降、全国26会場で開催され、16万人以上が来場する展覧会です。全国の会員980人、会友14,000人によって構成される認定NPO法人「水俣フォーラム」が主催しています。

水俣展は、「水俣病事件の事実は現代日本に何を物語るのか。」をテーマにした展示(パネルや写真、絵画など)と、「水俣病の経験から何を学ぶか。展示を超えて、さらに学びたい人のために。」をテーマにしたホールプログラム(患者さんからのお話や水俣病に関する映画鑑賞と有識者の講演など)で構成されていました。

■メイン展示……悲しみの底に何が見えるか
プロローグ:1956年4月、幼い少女を「奇病」が襲った
クロニクル:映像でたどる水俣病と私たちの60年
展示1:水俣の美しい自然・豊かな風土
展示2:水俣病とは何か
展示3:水銀はなぜ止まらなかったのか
展示4:被害者は何を求めたのか
展示5:その後の水俣と水俣病事件
エピローグ:「彼岸の団欒(まどい)を垣間見る」石牟礼道子
■患者遺影……死者たちが来場者を見つめる
■実物展示……残された物こそ雄弁に語る
■美術展示……事実は表現されて真実となる
■写真展示……レンズが失われた声を聞いた
■事実史の証言コーナー……当事者の生の声を聞く
■展示説明会
■水俣病ブックフェア……さらに深く知るために
■水俣物産展……モノを通して暮らしと志が出会う

水俣・京都展プログラムより

今回は展示のみの観覧になりましたが、水俣病とは何だったのか、何が起きたのか、何が起きているのかを多様な視点から順を追って知ることができました。また、水俣病以前の暮らしや家族の様子を収めた写真などの展示物から、水俣病の被害に遭われた方々の確かにあった暮らし・人生の一部に触れることができました。

展示説明員の方が40分ほどかけて解説しながら会場を案内してくださり、その後に一つひとつの展示を立ち止まりながらじっくり見ていたら、あっという間に4時間が経っていました。

特に印象に残った展示

宝子
宝子

これは水俣病の患者である智子さんを「宝子」と呼び、優しく温かい笑顔で彼女を囲む家族の写真です。

家族を想い・子どもを愛する気持ちが伝わり「人間として生きるとはこういうことなのでは」と感じました。この一枚の写真から伝わってきたのは悲惨さや絶望でなく、とても優しく温かく力強い愛で、胸がいっぱいになって、自然と涙が溢れました。

自然が豊かで美しい水俣

自然豊かな水俣の様子水俣の人々の多くは漁業を生業とし、暮らしにまつわることのほとんどを自然素材でまかない、自給自足に近い暮らしをしていました。自然と共に生き、家族と共に生きる。現代だと求めてもなかなかできないような、とても豊かな暮らしが確かにあったのです。

それを伝える「展示2:水俣の美しい自然・豊かな風土」を見ながら、水俣がこんなにも豊かな自然があった地だったことに驚きました。

水俣病の被害者の方々や、支える方々は、何十年もかけて、どんな理不尽な状況の中でも声を上げ続け、闘い続け、多くの大事なことを問いかけ続けています。それはこの自然と共にある豊かな生き方が、その強さを支える土台にあるからなのかもしれない、と感じました。

被害者は何を求めたのか

被害者は何を求めたのか
「展示4:被害者は何を求めたのか」では、判決後の東京自主交渉で「あなたと同じように幸せであるべき親が、こんなに違ってよかですか」と、チッソの社長に語りかける川本輝夫さんの姿を、当時の映像と写真で見ることができました。

私は川本さんの魂の語りかけを前に、動けなくなりました。鬼気迫る迫力を持ちつつも怒りをぶつけるのではなく、諭すように語りかける姿。チッソ社長の目をまっすぐに見て、自分の内から出る自分の言葉で相手に届くように語りかける川本さんと、何も言えずただ圧倒されているチッソの社長。人間とは何なのか、人間として生きるとはどういうことなのかを、考えさせられました。

川本さんのお父さんは、重篤な水俣病患者にみられる狂騒状態で亡くなりました。「昭和35年に水俣病は終わったという一般の通説を信じ検査を行わなかった」という主治医の判断により、水俣病の認定を受けることなく、64歳で亡くなっています。

3年2ヵ月にわたり介護をした後、精神病院で狂死するお父さんを看取った川本さんは、父を水俣病と認定させることで名誉を回復し無念を晴らすことを胸に誓いました。そして、自身も水俣病を患う中、必死に勉強して准看護師になり、水俣病の医学書を読み漁りながら裁判闘争の前線に立ち闘い続けたのです。度重なる棄却の後、ついに1971年にご自身が水俣病認定を受けた後も、「まだ患者はいる」という思いから、チッソの本社前での座り込みや補償を求めた直接交渉を続け、1999年67歳で亡くなるまで生涯に渡り闘い続けてきました。

川本さんたちの闘いは、1973年7月に補償協定として実を結び、今も患者補償の根拠となっています。

患者さんの遺影……死者たちが来場者を見つめる
患者さんの遺影

「展示:患者遺影」には患者さんの遺影がありました。お一人おひとりのお顔から、社会のシステムや全体主義で見えなくなりがちな、一人ひとりの人生の尊さ、力強さが伝わってきました。

実物展示……残された物こそ雄弁に語る

展示3:水銀はなぜ止まらなかったのか「展示3:水銀はなぜ止まらなかったのか」で見た水銀ヘドロや大量の薬のカラからは、水俣病の恐ろしさが伝わってきました。

人間として生きる、とは

「水俣展」は、私に人間として生きるとは何なのかを、ずっと問いかけてきました。

一つひとつの情報から受け取ったエネルギー、紡がれる声からの問いかけ……。これらは、実際に足を運んだからこそ、感じることができたことです。水俣病についての展示だったのですが、気づくともっと大きなテーマに考えが及んでいました。経済至上主義の果てに起きた被害、企業の利益優先の姿勢、人間のエゴイズムから生まれる差別構造、利便性を優先することによる人生や環境の破壊。

こうした構造や事象は今もなお、各地で起き続けています。沖縄、福島、そして世界各国でも……。その背景にある問題の根底や構造は同じではないでしょうか。だからこそ、水俣病を知ること・学ぶことは、他の様々な問題や、人間とは何かを考える上で、行動していく上で貴重な機会だと、改めて感じました。

そして、何か大きな行動を起こすだけでなく、日々の暮らしや自分自身のあり方、まわりの人たちとの向き合い方から今すぐに変えていけること、できることをしていく力をもらいました。

人間として生きるとは? 簡単に答えが出ない問いですが、今後も学び、問い、考え続けていきたいです。

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