ENW Lab.
Interview: 世界初・気候ポジティブなジンの開発者に聞く
お話:カースティ・ブラック(Kirsty Black)さん
Arbikie Highland Estate (英国スコットランド)
マスター・ディスティラー兼蒸留所マネージャー
聞き手:杉本優(Yuno Dinnie)
はじめに:豆から生まれたお酒
カースティ・ブラックさんのことを初めて聞いたのは、今年2月のある朝、ラジオのニュースを聞いていた時でした。英国スコットランドの蒸留所が、世界初の気候ポジティブなジンを開発したというのです。「Nàdar(ナーダル、ゲール語で自然のこと)」と命名されたこのジンは、数々の賞を受賞しているアービキー蒸留所(Arbikie Distillery)の開発した商品で、カーボンフットプリントはなんと700mlボトルあたり-1.54 kg CO2e。マイナス値ということは、製造過程で排出される二酸化炭素量より吸収される量の方が多いのです。その秘密は?というと、それは原料にありました。Nàdarは、豆で作ったジンなのです。
植物が生育するためには窒素が必要です。商業的農業では、収量を上げるため大量の化学窒素肥料が使われています。窒素肥料の合成には莫大なエネルギーが必要な上、植物に吸収されなかった余剰窒素は大気や水を汚染し、気候変動の要因にもなります。しかしマメ科の植物は、大気中の窒素を固定できる根粒菌と共生しているため、窒素肥料を使わずに育てることができます。また、豆類を輪作の一環として使えば土壌改良に役立つので、同じ畑で他の作物を育てる際にも肥料の使用を減らすことができます。さらに、ジンを作る際に出る豆のさややポットエール(蒸留後に残る廃液)などの廃棄物も、タンパク質を豊富に含む家畜飼料として活用できます。現在、家畜飼料用の大豆生産が世界中で森林破壊を引き起こしていますが、Nàdarは大豆の輸入を減らすのにも役立つのです。
Nàdarは、アービキー蒸留所のマスター・ディスティラー(蒸留責任者)である女性、カースティ・ブラックさんが5年間を費やした研究の結晶です。カースティさんからお話をうかがいました。
豆を使って気候ポジティブなジンを作るというアイデアは、どうやって生まれたのですか? 何かのきっかけで、はっと閃く瞬間があったのでしょうか?
カースティ・ブラック(KB): 残念ながら、アイデアが急に頭に浮かんだわけではありませんでした。私の他にもたくさんの人たちがさまざまな研究を重ねてきた結果、このジンの発売に至ったのです。アービキーではスピリッツを蒸留してこのジンを作りましたが、そこに至るまでには、EUのTRUE (TRansition paths to sUstainable legume based systems in Europe) というプログラムの一環として、ジェームズ・ハットン研究所やアバーテイ大学、バンガー大学、トリニティ・カレッジで、マメ科作物栽培学、発酵プロセス、ライフサイクル分析などに関する研究が長年にわたり進められてきました。マメ科植物が環境に貢献することは分かっていましたが、農業従事者にもっと豆類を作付けしてもらうためには、高価値市場が必要でした。スコットランドと言えばやはりお酒なので、だったら豆をアルコールに変えるしかない!と考えたわけです。アービキーではイノベーションに力を入れています。私たちは農業と蒸留酒生産の両方に関わっているので、世界初の気候ポジティブ蒸留酒を作る絶好の機会だと思いました。
Nàdarの研究開発プロセスで最も大変だったことは何ですか?
KB: 最大の難関は、ラボでの研究から量産への移行だったと思います。理論上はうまくいくはずだと分かっていましたが、グラム単位の豆を使った実験から何トンもの豆を使う段階に入る時は、やはり不安になりました。また、この製品を作ることで私たちが達成しようとしていることを、人々が理解してくれるのか、受け入れてくれるのか分からないという不安もありました。
カースティさんは5年間の歳月をかけた博士研究を通してNàdarジンを生み出したとうかがっています。その間アービキー蒸留所のマスター・ディスティラーとしても忙しくお仕事をされていたわけですが、この2つをどうやって両立させることができたのですか? 何が支えになったのでしょうか?
KB: 現在、大学院の定時制課程で、マメ科植物のさまざまな側面を考察する博士研究を仕上げているところです。研究の流れでは、まず畑に視点を当てて、窒素固定能力を持つ豆類を、伝統的な穀類生産の補助作物として活用する可能性を検討します。それから、その豆作物自体を販売するプレミアム市場を探します。具体的には、デンプンをアルコール飲料、タンパク質を家畜肥料や食品として、市場向けに開発するわけです。
もともと忙しい時ほど楽しいという性格なので、どんどん新しいことを学び、毎日違うことに取り組むのが好きなんです。蒸留所での仕事と大学院での研究を並行して進めることで、研究を産業界で実地に応用する機会が生まれるので、大きな満足感があります。
アービキーは日本にも輸出しているんですか?
KB: はい、日本でも東京のグローバルグローサリーという会社を通して販売しており、これからはもっと日本の市場に輸出していきたいと考えています。特に、世界唯一の気候ポジティブなジンであるNàdarに対しては、舌が肥えていてサステナビリティ意識も高い日本の消費者は、きっと関心を示してくれると思います。
サステナブル・スピリット
アービキー蒸留所(Arbikie Highland Estate)は、2013年にスコットランド北東部にある農場で、農場主であるスターリング家の3兄弟、ジョン、イアン、デイヴィッドにより創立されました。アービキーの理念はField to Bottle(畑からボトルへ)で、畑で育て、収穫した作物を使って蒸留酒を作っています。設立後最初に開発した商品は、形がいびつで小売用に販売することができず、通常なら捨てられてしまうジャガイモを活用して作ったウォッカとジンでした。アービキーの中核であるそうしたサステナビリティの精神を、さらに追求した結果誕生したのがNàdarなのです。
Nàdarジンに続いて、最近Nàdarウォッカも発売したとニュースで読みました。今後、例えばNàdarウィスキーなど、さらにNàdar シリーズを増やしていく計画はあるのでしょうか? 他にも何か、気候問題への取り組みを進めていますか?
KB: スコッチウィスキーは穀物から蒸留しなければならないという決まりになっているので、残念ながら豆を原料にすることはできないんです。でも、他にも違う種類の豆やフレーバーなど選択肢はたくさんあるので、いつもいろいろ実験して、新しい製品を開発しようと取り組んでいます。アービキーの目標は、世界で最もサステナブルな蒸留所のひとつになることです。その第一歩として、まずは原料に注目し、アービキーの農場で原料をどのように育てているのか見直したのです。今はその次の段階として、蒸留所の建物に出入りするもののすべてを問い直し、環境のために最も良い選択ができるよう考えています。これからは、取り組むプロジェクトのすべてで気候問題に焦点を当てていきます。
カースティさんにとって、仕事においても生活の中でも、サステナビリティは以前から常に重要なことだったのでしょうか? カースティさんにとってサステナビリティとは何ですか?
KB: 私は果物農場で育ったので、昔からずっと山野や田園地方、身近に育つ野生の植物に興味がありました。同時に、私たちの行動の結果こうした環境に生じている変化にも関心がありました。地球へのインパクトを減らしていく責任は、私たちすべての人間にあると思います。Nàdarシリーズの発売を通して他の蒸留所・醸造所にも、異なったアプローチからサステナビリティや環境インパクトについて考えることが可能だと、知ってもらうことができればと願っています。
酒造業界をもっとサステナブルにするためには、どうすれば良いと思いますか?
KB: スコットランドの蒸留酒産業は、今もサステナビリティをかなり重視していると思います。代替エネルギーの使用を検討したり、排出量削減にも取り組んだりしています。次のステップは、原料の育て方や農業に注目して、どのような農法を使うのかに影響を与えて生物多様性向上を促進することだと思います。アービキーでは、蒸留するベーススピリッツの原料も、ジュニパーベリーやレモングラス、ライム、チリペッパーといった多彩なボタニカル(ジンに香りをつける添加植物材料)も、自分たちで育てています。
アルコールは飲みすぎれば有害なものであり、酒造産業には「問題飲酒」の問題がつきまといます。コロナ対策のロックダウン中、問題飲酒が増えたとも言われています。この点についてはどうお考えですか? 責任ある飲酒を促進するためには何をする必要があると思いますか?
KB: アービキーでは、ポートマン・グループ(英国の大手酒造企業が設立した自主規制団体)が定めている「責任ある飲酒基準」を遵守しています。
参照:ポートマン・グループについて
「ポートマン・グループは業界に対し、高水準のベストプラクティスを実施するよう一貫した働きかけを継続し、またアルコール製品に関して英国の消費者に対し責任あるマーケティング及びプロモーションを徹底するよう、自主規制機関として必須の役割を担うことを目指しています。当グループの綱領は、アルコール飲料の命名、ブランディング、販売の際に全てのアルコール生産者が従わなければならないガイドラインを定めています」
ポートマン・グループの基準についてはこちらを参照。
https://www.portmangroup.org.uk/codes-of-practice/
男性の世界ではばたく
カースティさんは、大学で生物学、特に植物科学を専攻し、卒業後は医療機器メーカーのエンジニアとして働きましたが、その後大学院に戻って醸造・蒸留修士号を取得しました。2014年に入ったアービキーでは蒸留所立ち上げに関わり、現在はマスター・ディスティラー兼蒸留所マネージャーとして、製品開発プロセス全体を監督する立場にあります。アービキーで開発したジン第1号はその名も「カースティズ・ジン」といい、2016年のサンフランシスコ世界スピリッツ・コンペティションで金賞を獲得しています。スピリッツ・ビジネス誌は、「世界の女性マスター・ディスティラー&ブレンダー・トップ10」のひとりとしてカースティさんを挙げています。そんなカースティさんは、アービキーでの仕事と並行して、ダンディー市のアバーテイ大学とジェームズ・ハットン研究所で、醸造・蒸留産業で豆類をサステナブル原料として活用する可能性を探求する博士研究を開始しました。この研究は2018年に、食品科学技術研究所が主催する若手科学者賞スコットランド部門で1等賞に輝きました。(https://www.abertay.ac.uk/news/2020/world-s-first-climate-positive-gin-produced-from-peas/)
カースティさんは最初科学を勉強し、次にエンジニアとして働き、その後醸造・蒸留を学び直して蒸留所に就職していますよね。どれも伝統的に男性が圧倒的に多い分野ですが、若い女性としてそうした世界に身を置いて、どのような体験をしましたか?
KB: 私は子供の時も学生時代にも、科学の仕事を志すことについて「やめた方が良い」とか「女性には無理」などと言われることなく育ちました。今振り返ってみると、本当に幸運だったと思います。やはり残念ながら、蒸留酒業界では今もジェンダーに関するステレオタイプが横行していますが、それでも確実に良い方向へ変化が起きています。
これからもっと多くの女性が理系のキャリアや「男の仕事」を選べるようにしていくためには、何が必要だと思いますか?
KB: 調査研究では常に、ロールモデルの存在が大切であるという結果が出ています。スコットランドでも他の国々でも、蒸留所のトップとして活躍する女性は増えています。メディアでこうしたロールモデルに光を当てることで、理系キャリアにもたくさんの機会があると、若い人たちに知ってもらうことができるのではないでしょうか。