ライフステージに合わせた働き方―家族の介護が必要になったら 第1回

2011 / 11 / 29 | 執筆者:二口 芳彗子 Kazuko Futakuchi

autumn leaves between sun halos and flashlight
By oedipusphinx — — — — theJWDban

考え方―大事にすること、あきらめること

前回のプロローグに続いて、今回から具体的にお話ししていきます。

ちょっと長くなりますが、当時の状況から。母は嫁いでから家族で、父が倒れてからは一人で、家業の八百屋を切り盛りしていました。自分で自動車を運転して市場に仕入れに出かけ、病院や施設の給食の配達もこなし、元気に働いていました。

私は当時、週に3回大学予備校での英語講師として、20~30人の英語科を担当し、その他富山の工作機械のメーカーからマニュアル翻訳の仕事をいただいて、在宅で翻訳をしていました。

そんな時、母が何でもない平地でバランスを崩し倒れることが続き、どうもおかしいと精密検査を受けた結果「多系統委縮症」と診断されました。

パーキンソン病と似ているのですが、母の病気は小脳がだんだんと委縮していき、運動神経への指令がうまくいかなくなり、だんだんと身体が動かなくなって最後には呼吸困難で亡くなる病気で、現代の医学では治療薬や治療法がない、お母さんの場合は長くて2年でしょう、と医師に告げられました。

それから一年をかけて、母の仕事を整理し、住んでいた家では段差が多くて、いずれ動けなくなったときに困ると、住まいも変えました。母には自動車の運転が危ないこと、少しずつ身体が動かなくなってしまうことだけを伝えて、仕事を「卒業」してもらいました。そして、身体機能を維持できるように、夕食当番になってもらう、曜日を決めて掃除機かけをするなど、家でできることを見つけてこなしてもらっていました。

100%在宅の仕事に切り替える

しかし、診断を受けて1年半、一人で家に居てもらえなくなる状態まで病気が進行しました。予備校での仕事は、志望校への合格を目指してがんばっている生徒たちが力をつけ、夢をかなえるのをサポートできるのは楽しいことでしたし、授業は人間相手、翻訳はパソコンの画面上の文字に向かってと、性質が正反対の仕事で、私にとってはちょうどバランスがとれている状態で、満足していました。そしてなにより、私の収入の約半分が予備校講師としての収入でした。

悩んだ末、私は年度末に予備校での講師の職を辞めて、在宅の仕事だけに絞ることに決めました。生徒の受験の一番大切な時期に母の病状が悪化した場合、仕事に集中できる自信がなかったというのが一番の理由です。経済的なことは、何とかしようと考えました。在宅での翻訳に100%注力しようと思えたのは、エコネットワークスに出会っていたことも大きな要因です。

選択肢として、デイケアを全面的に利用して、ワークスタイルを変えない方法もあったと思いますが、家にいることが何より好きだった母の思いを大切にしたかったので、家計から介護に当てられる部分とのバランスも考えて、週2回デイケアを利用して仕事に集中する日とし、その他の日は、介護をしながら仕事をするというスタイルを始めました。

経済的な状況維持と英語講師としての仕事はあきらめましたが、家族へのエネルギーと時間、「翻訳」と言う仕事を選びました。何を守り、何を捨てるか。答えは結局のところ、自分の中にある、というのが実感です。

もし、今迷っているなら、「今、自分が一番大事にしたいこと」はなにかを確認することから始めてみてください。私の場合は、「限られた時間の中で、できるだけ母が家にいる時間を確保すること」でした。例えば「今どうしても手放せないプロジェクトがある」場合は、家族にとって一番快適なデイケアサービスを探し、理解を得るよう伝えるなどです。

友人の話を聞くと、どんな介護の方法があるのかを検討して、それから自分の仕事をそれに合わせることが多いように思いますが、介護は長期戦なので、自分の心が折れないようにするためにも、私はまず大事なことを見極めてから、できる方法を探すとよいと思います。

次回は、家族の協力と、母の仕事への理解について、お話しします。

 

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