【身近にあるコモンズ】共有廊下から考える「コモン」

2024 / 4 / 16 | カテゴリー: | 執筆者:EcoNetworks Editor
町のイラスト

(Illustration by Katerina Limpitsouni via unDraw)

今や世界でも広く読まれている経済思想家の斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』や松本卓也氏との共編『コモンの「自治」論』で、問題解決のキーワードとして提案されている「コモン」。これは共有財・公共財とも呼ばれ、みんなで一緒に管理・使用しているもの・ことを指すのですが、同書の中では地球を「コモン」として持続可能にみんなで共有、管理することで初めてサステナブルな世の中が実現すると述べられています。

エコネットワークス(ENW)ではこの考え方に共感するパートナーが多く、サステナブルな社会に向けた議論をする際、たびたび「コモン」という言葉が出てきます。一方で、世の中を見回すと「コモン」という言葉の目新しさや、現在の資産分配の不平等から「実現は難しいのでは?」という声も少なくありません。本当にそうなのでしょうか?

実は、すでに「コモン」の仕組みは数多くあります。身近なところでは公民館や図書館、井戸、共同運営の生協(COOP)、入会地(いりあいち)は、コモンの好例です。まわりを見回すと、もっと面白い事例がたくさん見つけられそうです。そこで、ENWでは世界各地にいるENWパートナーに声がけをし、それぞれの身近にあり、実際に参加している「コモン」を紹介するコラム「身近にあるコモンズ」の連載を始めることにしました。第1回目は「共有廊下」の話です。

共有廊下から考える「コモン」


執筆:土井 陽子
東京都在住。ENWや市民社会組織、国際機関などで企業の人権尊重の取り組みの支援をしています。


わたしがパートナーと10年以上入居している建物には広い共有廊下があって、同じ階の住人の皆さんとよく顔を合わせます。はす向かいに設置されたそれぞれの居室のドアを挟む形で、2メートル弱の幅の廊下が15メートルほど続いています。

賃貸物件ということもあり、表札を出しているお宅はないのですが、お互い名前はわからずとも顔は認識しており、廊下で会えば挨拶はもちろん、ときにはちょっとした会話を楽しんでいます。雨の日には外に出られない子どもたちが共有廊下で遊んでいたり、子どもたちを見守る大人たちがおしゃべりをしていたり、大工仕事をしたり趣味の道具の手入れをしたり、室内にいても廊下から楽しそうな気配が伝わってきます。

わたし自身は、子どものころは団地に住んでいて、同じ建物のほとんどの子どもたちは同じ小学校に通っており、子どもも親も顔見知りでした。調味料の貸し借りをしたり、生協を共同で頼んだり、親が留守のときに子どもを預かったり、鍵を家に忘れた隣室の同級生がうちのベランダから柵をわたって帰宅したことも。困ったらすぐに誰かに声をかけられる環境で、建物全体が一つの共同体として機能していました。

賃貸物件だと近隣の人たちと関係性をつくるのが難しく、つながりを感じにくいところですが、広い共有廊下が住人の共有財、いわゆる「コモン」として、ちょっとした広場の役割を担い、それぞれのドアの向こうの生活の気配を伝えてくれます。

こうした場所の大切さを心底感じたのが、コロナ下でした。人と会うことがだんだんと減っていく中で、人の気配に触れられて安心できる身近な場所が共有廊下でした。また、地震や気候変動に伴う災害が増える中で、ライフラインを共有している同じ建物の人たちとつながり、安否確認ができることはとても重要です。住人と共有しお互いが自然に顔を合わせるこうした場所が必要だと感じます。

「コモン」はそこに集う人々によって共同で利用され管理される共有の「富」であり、その「富」とは自然や社会の資源であるとされています。共有の森林や河川、土地を守ったり、人々が共有する文化や風習、知識を共有したりする機能がコモンにはあり、人々が対話に基づいて民主的なプロセスで管理するようになっています。

そこで生み出されるのは、自然の持続可能性と人々の平等という社会的価値であり、人間や自然の搾取につながる権力と支配が生まれない構造になっています。コモンに集う人々は、それぞれのスキルや時間を提供し、必要な人々が提供されたものを受け取ることができます。国による社会保障サービスや企業による製品・サービスの提供とは異なる、共同体による相互扶助で成り立っているのです。

思えば、子どものころに住んでいた団地では、遅い時間まで対応できない保育園や学童クラブに代わってお互いに子どもを預け合ったり、閉店時間の早いお店に代わって調味料を貸し借りしたり、公共・民間サービスが行き届かないところを住人、特に家族のケアを担う女性同士が補い合っていたのでした。まさにコモンがそこにあったといえます。

あのころと比べて格段に進んだ公共・民間サービスのおかげで、生活に必要な製品・サービスは手に入りやすくなりました。一方で、生活を自己完結させることが可能となり、近隣の人とのつながりは希薄になりやすいといえます。わたしたちの広い共有廊下は、住人の生活の場として共有され、自然と住人が顔を合わせてお互いの存在を認識し、声をかけあう場所であることから、コモンとして機能しているのではないかと感じます。

コロナの感染者数が落ち着いた昨年の夏の終わり、共有廊下で飲み会が開催されました。予定されていたわけではなく立ち話から自然に、廊下にアウトドアチェアを持ち出して、お酒やおつまみを持ち寄って始まったとのこと。ちょうど外出から帰ってきた時に飲み会に出くわし、同じ階の人たちのお名前をやっと聞くことができ、こちらも自己紹介ができました。

残念ながら仕事が終わらず飲み会に参加できなかったわが家には、焼いたお肉がきれいに盛られたお皿がおすそわけで届き、「仕事、がんばって!」と応援までしていただきました。同じ階の人たちと共有するものがあり、何かあったらすぐに声をかけられるつながりができたことのありがたさを感じた夜でした。

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