ENW Lab. ENWラボ
大田朋子さんインタビュー(第2回目)
(こちらはインタビュー第1回目の続きです)
硲:その後、メキシコとアルゼンチンで起業されたということですが、そのときのお話を聞かせていただけますか?
大田:メキシコに飛び込んでいった当時は、スペイン語もできない中でしたが、何かを立ち上げようと思い、自分に6カ月間の猶予を与えました。その期間で何かを立ち上げられなかったらメキシコを去ろう、そうやって自分に時間的な制限を設けました。そして、いろんな人に会いに行くことから始め、出会った人との縁がつながり、メキシコ全土のオーガニックの生産者との接点を持っておられた方と共同経営で会社を立ち上げました。日本とメキシコの間でFTA(自由貿易協定)が結び始められた頃でした。こうして縁と時代の流れの中で、会社を起こすことになりました。
メキシコ人の従業員を持つことは大変でした。1のことをしてもらうのに、10回もその旨を言わないと業務が遂行されないメンタリティーの国民と仕事をしていくのは楽ではありませんでした。私自身、自分の仕事を監視されることが嫌いなので、人をマネジメントするときも極力任せるのが好きなのですが、その方法が全く通用せず、自分の経営スタイルを考えさせられました。そういう葛藤や、いろんなもがきがありました。
その頃、歯医者さんのリセプションで「プロジェクトX」という、日本企業の戦後の歴史を描いた番組の漫画をたまたま見つけました。日本の大企業が何もないところからどうやって始めたのかが描かれていて、当時の自分には応援歌のようになりました。とても感動し、これを世界で伝えたい、と思いました。そこで、スペイン語版を出版しようと、出版会社にファックスで連絡を取り、そこの社長さんに会うことができました。当時は漫画の国際著作権という言葉も知らなかったのですが、これがアルゼンチンの会社につながっていったという経緯です。その後、取引先の不正があり国際著作権を巡って、国際裁判でも闘いました。日本の取引先の出版社さんが自分を全面的に信頼してくれて、私が代表として裁判に臨んでいたのですが、先進国とは違ってインテレクチャル・プロパティーという概念がない人たちを相手にしての闘いは生産的なものではなかったです。それでも、しなければならなかった。不正には断固として闘うという日本側の姿勢を示す必要がありました。 「プロジェクトX」のスペイン語版は、いろいろな事情で出版できなかったのですが、メッセージ性のある漫画をいくつもスペイン語出版することができました。
長い話を短く言うと、この会社は結局、29歳の頃に閉じることになり、20代で立ち上げたものが消えていったわけです。もちろん、人とのつながりなど、自分の中に残っているものもたくさんありましたが、「自分は何をしてきたのかな」と思いました。「何のためにこの国にいるのかな」などと、いろいろ考えました。それに、国がめちゃくちゃなことが個人に与える影響を実感しました。自分がこうあるべきだということをどれだけやっていても、国の情勢がついてきていないとうまくいかないことを知りました。自分がその後どうしたいかを見直すことが必要な時期でした。
会社をたたんでからもしばらくはアルゼンチンにいました。私のパートナー(英国人)はアルゼンチンで会社を経営していて、今でこそどこにいても会社が機能する体制ができていますが、当時はアルゼンチンにいる必要がありました。彼と築き始めていた生活を守りながら、アルゼンチンで次に何をしようかという視点で次の展開を考えました。アルゼンチン人と仕事をするのはもううんざりでしたし(笑)、かといってすぐにプロジェクトを起こす気にもなりませんでした。そこで、10年後も20年後も自分が好きで続けられて、他の国に移住しても継続できるライターの仕事を始め、その後、アルゼンチンで数年間ライターの仕事をしていました。いろいろあっても、やっぱりブエノスアイレスが好きでした。街に恋ができた、というのは初めての経験で、今でも大好きです。その後、スペインに移住するときにも、「また絶対に戻ってくるだろうなあ」と思ったほど。ブエノスアイレスへの思いは今も変わっていません。
硲:いろいろな国で仕事や生活を経験されてきて、やっぱり世界を舞台にしてよかったなと特に思うことや、いろいろな国で生活を経験したからこそ学べたこと、得られたものなどを教えていただけますか?
大田:いろいろありますが、ひとつは、どこに行っても誰と会っても、どの言語を話していても自分でいられるようになったことです。最初の5年間くらいはできていなかったと思います。異質なものに触れることで、物怖じせず、自分を出し過ぎるでもなく抑え過ぎるでもなく、自分らしくいられるようになり、自分の安定感につながりました。逆説的ですが、世界を舞台にしたからこそ自分自身が常に「マイセルフ」でいられるようになったのかなと思います。
また、世界中に友達ができたことで、ニュースで知ることが他人事ではなくなったということもあります。その場所に住んでいる友達の顔が浮かぶので、エゴイスティックではなくなってきて、世界市民の一人としての視点を持てるようになってきたと思います。そういう意味で、世界が身近になったということがあります。全然遠いものではなく、自分にできることがある、という思いにもつながっています。そういうことが大きいと思います。
それに、考え方が違うのが当たり前の人たちとずっと一緒にいたので、自分の主張に固執しなくなりました。日本人同士だと、ベースに同じような考えがあって、その上で意見の違いがあってもわかり合おうとする姿勢は共通してあると思うのですが、そんな姿勢もない人たちとも一緒にいたので、考え方が違うのが大前提で、違っても気にならないようになりました。以前の自分なら、もっともっと理解してもらおうとしたことでも、すっと引けるようになりました。これは結局、海外にいるかどうかは関係ないと思いますが、私の場合はそういう訓練をする機会がたまたま海外にあっただけです。海外で違う人たちとばかりいたからこそ、自分と相手の異質感を認められるようになり、このことは自分にとって大きな成長だったと思います。
硲:そうなれたらすばらしいですね。
大田:どっちも素敵なんですよね。昔の日記を読むと、当時の自分の熱い気持ちに感動しちゃったりするんですよ(笑)。信念を持っていれば、人間ってやっぱり自分の思い描いたことを実現できるんだ、と。やっぱり真っすぐっていいなと思います。昔の自分を振り返るとそう思うし、何も見えていなかったから多分できたんだと思うんです。今のようにある程度のことが見えてくると、引くこともでてくるかもしれませんが、本当に見えていなかったから真っすぐで、それはそれでよかったなとすごく思います。一つひとつの段階というのがあるのだと思います。